「鬼滅の刃」はなぜ??、たくさんの人を感動させるのでしょうか?
目次
鬼滅 ≠ 娯楽
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」を鑑賞したあとの映画館は異常な空気につつまれています。アニメ映画なのに、子どもだけでなく大人まで(むしろ大人のほうが)ボロボロと涙を流しているんです!!!!
わたしの知り合いの3人の子どもを育てるお母さんは、お子さんから「お母さん、鬼滅の刃の映画は絶対に観たほうがいいよ」とおススメされて、そのお母さんはそれまで漫画にもアニメにももちろん鬼滅の刃にもほとんどまったく興味がなかったのに、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」をひとりで鑑賞しにいったそうです。
その結果マスクがぐしゃぐしゃになるぐらい号泣し、「上映中にもう一度観にいきたい。あなたも絶対に観にいくべき!!」とわたしに熱心に鬼滅の刃をおススメしてくれました。
たくさんの人が同じ作品を鑑賞して感動を共有するのは素晴らしいことです。しかし気になることがあります。「鬼滅の刃の本質を理解していない人が多すぎる」と思うのです。
【キメハラ】(鬼滅の刃ハラスメント)という言葉だけでなく、【逆キメハラ】という言葉も誕生しています。「(あなたはもう)鬼滅の刃みた?鬼滅の刃は面白いから観たほうがいいよ?」と他人におススメする人(キメハラ加害者)がいる一方で、おススメされて鬼滅の刃を観たけれども「鬼滅の刃はつまらなかった」と不満をもらす人(逆キメハラ加害者)もいるのだそうです。
しかし残念ながら・・・・・キメハラする人も、逆キメハラする人も、鬼滅の刃という作品を誤解しています。鬼滅の刃という作品は「面白かった」or「つまらなかった」ということで評価するべき娯楽作品ではないのです。
娯楽作品は、ゲラゲラ笑えたり、スッキリできる作品です。日常で疲れたカラダとココロを癒して、元の日常に戻ることを目的にしているのが娯楽作品です。しかし鬼滅の刃はそういう作品でないのです。もちろんクスっと笑ってしまうギャグ要素があるのも確かですが、娯楽を超えた「アート(芸術)」要素にこそ、鬼滅の刃の醍醐味があるのです。
ではアートとはどのようなものなのでしょうか?ズバリ・・・・・アート(芸術)とは『それに触れた人間の心を深く傷つけることで、それを触れる前に後戻りさせなくするもの』のことです。
本ブログ「気づき工房」は、「人生を変えるかもしれない気づきを提供する」ことを目的にしています。ですから【鬼滅の刃】は、まさに解説するのにピッタリな作品です。わかりやすく解説しますので、是非とも最後までお付き合いください。
感動の本質
劇場版 鬼滅の刃 無限列車編に感動した!!という人が多いので、『感動』というキーワードから掘り下げて考えてみることにしましょう。わたしたちが感動するときはどんな時でしょうか?
外国の人が経験した感動的な出来事よりも、同じ国の人が経験した感動的な出来事のほうに、より強く心を動かされることはよくあることです。例えばオリンピックで外国人が金メダルを獲得するよりも、日本の選手が金メダルを獲得したときのほうが、感動が大きいのはあなたの実感があるでしょうが、それはなぜでしょうか?
その理由は甲子園を観戦したことのある人ならわかるはずです。特にテレビで映像をみるよりも、実際に甲子園にいき、「負けたら夏が終わる」という状況で必死に野球に向き合っている甲子園球児と、甲子園球児を応援する人たちの熱気を感じたことのある人なら、『感動の本質』がよくわかるでしょう。
そう。『感動の本質』は【臨場感】(リアリティー)にあるのです。例えば小説を読んで涙を流すのは、読者その世界に臨場感(リアリティー)をもったからです。同様に、甲子園の1試合1試合にとにかく感動してしまうのは、甲子園球児やその関係者に臨場感(リアリティー)をもつことができるからです。
さっそくですがあなたにとても難しい質問をします。鬼滅の刃に感動した人は、どのような臨場感をもったのでしょうか?
甲子園に感動するのは理解できるでしょう。野球経験者であれば、他人の野球を観ているときでもまるで自分自身がプレーをしているような臨場感をもつことができるでしょう。甲子園で球児がファインプレーをすれば、そのときの爽快感を疑似体験することだってできるでしょう。
また野球経験者でなくても、日本人であれば野球のルールはなんとなく知っているでしょうし、甲子園に出場するだけでもそれがどれだけ大変なことか知っているし、甲子園をテーマにした漫画(例:タッチ)などで得た知識をもとに臨場感(リアリティー)をもつことができるでしょう。
では冒頭で紹介した「漫画」にも「アニメ」にも「少年ジャンプ」にも興味がなかったお母さんは、鬼滅の刃のどのあたりに臨場感(リアリティー)をもつことができたのでしょうか?
実はそのことを理解することが鬼滅の刃という作品の影響力を理解することにそのままつながると思うので順に解説したいと思います。
鬼の正体
「鬼滅の刃」はタイトルからもわかるように「人間が鬼を滅する(退治する)」物語です。主人公の竈門炭治郎は熱心に修行を積み、鬼を退治する組織『鬼殺隊(きさつたい)』に入隊します。
なぜ?鬼殺隊は鬼を殺すのでしょうか?答えは明らかです。鬼を放っておくと人間が殺されるだけでなく、人間社会までもが滅びる可能性があるからです。
しかし鬼を退治するのは簡単ではありません。なぜならば鬼は人間よりも強いからです。鬼は「直射日光を浴びる」か「首をはねる」という条件を満たさないかぎり死なないし、人間であれば致命傷であるはずのダメージを受けてもすぐに回復してしまいます。
そのため鬼殺隊のメンバーは鬼と戦うために必死に修行して戦いにそなえるわけですが、実は・・・・・・・鬼はもともとは人間だったのです。鬼を増やすことができるのは、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)という鬼(鬼側のボス)だけなのですが、鬼舞辻無惨が武力や知能に長けた人間を鬼にしているのです。
しかしここで見過ごしてはいけないポイントがあります。それは鬼側勢力でエリートとされる鬼たちは全員、「自ら鬼になることを決断した」という点です。なぜ?人間を食って生きる鬼になる道を選んだのでしょうか?
ズバリその答えは「私利私欲を満たすため」です。
主人公の竈門炭治郎が鬼殺隊に入隊した後に最初に戦った鬼は、若い女性をさらって食べてしまう鬼でした。その鬼は「16歳になったばかりの若い女が一番美味しい。時間が経過するとマズくなるから、1日も早く食べさせろ」というようなことを主張していました。
とはいえ、鬼になる人間も最初から悪人だったわけではありません。「不治の病に侵されて余命いくばくもない」とか、「家族を惨殺される」などの絶望を経験した結果、鬼の力に魅了されてしまうのです。
「もともとは人間だった人間が私利私欲を満たすために鬼になる」という点は、鬼の本質であり鬼滅の刃という作品を理解する上で欠かせないポイントだといえるでしょう。
そして鬼と対比すれば、鬼殺隊という組織の存在がよりはっきり理解できるはずですので解説を続けたいと思います。
鬼殺隊の動機
鬼殺隊に入隊すると、日光以外で鬼を倒すことができる唯一の武器、『日輪刀 (にちりんとう)』を貸与されます。日輪刀は「色変わりの刀」とも呼ばれ、はじめに刀を握った者の呼吸の適性に応じて刃の色が変わるのですが、主人公の竈門炭治郎の日輪刀の色は「黒」でした。
日輪刀が黒ということはどのような意味を持つのでしょうか?竈門炭治郎の師匠である鱗滝左近次(うろこだきさこんじ)曰く、「黒い刃になるものは数が少なすぎて詳細がわからない。わからなすぎて、出世できない剣士は黒い刃なのだといわれている」のだそうです。
鱗滝左近次はそのことを竈門炭治郎に伝えるのに戸惑っているようでしたが、それもうなづけます。例えばもしあなたが新卒の社員だとして、入社してまだ仕事もろくにしていないのに上司から「新人社員研修の結果、出世できるほどの能力がないことがわかりました」と宣告されたらどう思うでしょうか?
遠回しに「出世できる見込みが薄い」なんていわれたら、普通はガッカリすると思いますが、竈門炭治郎の反応は意外なものでした。竈門炭治郎は、鱗滝左近次からネガティブな情報を与えられたにもかかわらず、がっかりすることもなく笑顔で「鬼になってしまった妹の禰豆子を人間に戻したい」と夢を語るのです。
そう。もともとは人間だった鬼と鬼殺隊の最大の違いは「動機」にあるのです。鬼は私利私欲を満たすために他人を平気でふみにじります。その一方で竈門炭治郎をはじめとした鬼殺隊のメンバーは、「他人の利益を守るために鬼殺隊としての活動を続けている」のです。
鬼と鬼殺隊の「動機の違い」と、動機の違いが生み出す「行動(様式)の違い」は「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」でもハッキリと描かれています。
エリート同士の戦い
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の最大の見どころは、鬼のエリートである『猗窩座(あかざ)』と鬼殺隊のエリートである『煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)』との戦闘にあります。公式PVを観るだけでもそのことは明らかです↓↓↓
猗窩座(あかざ)は鬼のエリートだけあって超強いです。経験の浅い炭治郎の目の前に、鬼の中で4番目に強い猗窩座があらわれた時の絶望感はすさまじいものがあります。
しかし煉獄杏寿郎も超強いのです。両者互角の戦いをするのですが、なにせ鬼は負ったダメージをすぐに回復してしまうものですから、戦いが長期戦に突入すると煉獄杏寿郎が少しずつ劣勢になっていきます。
とはいえ猗窩座(あかざ)にとっては煉獄杏寿郎の強さは予想以上だったようで、煉獄杏寿郎に対して「お前も、鬼にならないか?(もし提案を断るのであればお前を殺す)」と提案するのですが、煉獄杏寿郎はハッキリとその提案を拒否します。その理由は「価値観が違うから」です。
弱い人間を否定する猗窩座と、人間に対して深い慈しみをもつ煉獄杏寿郎の価値観が異なっているのは説明するまでもなく明らかですが、ではその価値観とは具体的にどのような価値観なのでしょうか?
交換プログラムの否定
猗窩座(あかざ)の価値観は、煉獄杏寿郎に「鬼にならないか?」といって勧誘する場面に集約されています。猗窩座(あかざ)の勧誘のうたい文句をひらたくいうとこういうことです↓↓↓
「人間を辞めて鬼になれば、人間の限界を超えて修行ができるので、お前はもっと強くなれるぞ。そのかわり鬼側のボス(鬼舞辻無惨)に絶対の忠誠を誓う必要がある。」
つまり「何かを得るために何かを犠牲にする」のは当然のことだというのが猗窩座(あかざ)の価値観なわけですが、煉獄杏寿郎はそのような価値観を全否定するのです。
猗窩座(あかざ)の価値観とはいわば「損得勘定をベースにした交換の価値観」です。もっとひらたくいうと「自分にとって得になるとわかっていることは積極的にやるが、それがわからないのであれば絶対にやらない」という価値観です。繰り返しになりますが、煉獄杏寿郎はこのような価値観を全否定します。
では煉獄杏寿郎の価値観とは、具体的にはどのような価値観なのでしょうか?
煉獄杏寿郎は子どもの時、お母さんから「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか?」と質問されます。そして質問にうまく答えられない子どもの頃の煉獄杏寿郎に対し、母はこんなことをいうのです。
「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者はその力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。」
つまり煉獄杏寿郎の母(瑠火:るか)は、私利私欲のために生きることを「許されないこと」とまで断言しているわけですが、それに加えて煉獄杏寿郎は「損得勘定をベースにした交換の価値観」も否定します。
その証拠に、猗窩座(あかざ)と対峙した煉獄杏寿郎には「逃げる」という選択肢もあったはずです。なぜならば単純に分が悪いからです。鬼殺隊においてエリートである杏寿郎の存在は貴重です。もし命を落とすようなことがあれば、鬼殺隊という組織に与えるダメージははかりしれません。
しかも猗窩座(あかざ)と対峙すること自体が「想定外の事故」のようなものです。猗窩座(あかざ)と対峙したのは鬼殺隊から当初与えられた任務を終えた直後だったし、猗窩座(あかざ)のような強敵を確実に倒すことを考えたら、一旦逃げてそれなりの体制を整えるのが『合理的』な考え方というものでしょう。
しかし煉獄杏寿郎は逃げません。煉獄杏寿郎には「猗窩座(あかざ)に勝てる」という確信があったわけではありません。しかし煉獄杏寿郎の言葉を借りれば「それがどうした」ということなのであり、主人公の竈門炭治郎を見捨てて強敵から逃げるという選択肢はないのです。
さて、ここまで解説したところでもう一度質問します。鬼滅の刃に感動した人は、どのような臨場感をもったのでしょうか?
現代社会は鬼だらけ
現代社会を注意深く観察すれば、煉獄杏寿郎のような存在はもはや絶滅危惧種であり、むしろ鬼のような卑怯な存在が得をして社会的なポジションを獲得するような状況に気づくはずです。鬼滅の刃に感動する人は、無意識のうちにそのような状況に臨場感(リアリティー)を感じているのではないか・・・・・というのがわたしの仮説です。
立ち止まって考えてみると、視聴率の高いドラマの主人公も煉獄杏寿郎的な価値観の持ち主です。
HEROの久利生公平(演:木村拓哉)も、ドクターXの大門未知子(演:米倉涼子)も、相棒の杉下右京(演:水谷豊)も、半沢直樹(演:堺雅人)も、自分が出世することよりも大事なものをもっている存在として描かれています。
多くの人が久利生公平・大門未知子・杉下右京・半沢直樹のように生きれたらいいなと思っているでしょう。しかし現実はそう簡単ではありません。煉獄杏寿郎的な価値観(≒鬼殺隊≒竈門炭治郎)を貫徹することは誰にとっても難しい世の中になっています。
日本語には「長い物には巻かれろ」という言葉があるとおり、「強い権力を持つ者や、強大な勢力を持つ者には、敵対せず傘下に入って従っておいたほうがよい」という教えが処世術にもなっています。
煉獄杏寿郎は、猗窩座(あかざ)からの「お前も鬼にならないか?」という誘いを「お前とは価値感が違う」といってきっぱりと断りましたが、もしあなたが権力者(例えば会社の上司)から、「●●したら出世させてやる」と囁かれて倫理的に「それってどうなの?」ということを「やれ!!」と命令されたらきっぱりと断れるでしょうか?
半沢直樹の同僚のひとりは、権力者から「●●したら本社に戻してやる」という誘惑に負けて半沢直樹を裏切りました。半沢直樹を裏切った同僚には自らの行動に対して「恥ずかしい」という自覚があるようでした。
そして半沢直樹も自分を裏切った同僚を責めませんでした。なぜならば半沢直樹も半沢直樹を裏切った同僚も、煉獄杏寿郎的な価値観を貫徹することがどれほど難しいことかを理解しているからです。
とはいえ・・・・・鬼だからけになった現代社会では、自分の利益のために他人をふみにじってもそのことを恥ずかしいと思うどころか「当然の権利」だと開き直っている人間がウジャウジャしています。
吾峠呼世晴の危機感
あくまで想像でしかありませんが、鬼滅の刃の作者である吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)には、そのことに関する危機感があったのだと思います。だからこそ「少年ジャンプ」に鬼滅の刃という作品が登場したことにわたしは価値があると考えています。その点について、詳しく説明しましょう。
テレビをつければ、自分の利益のために行動しそのことが公になると説明責任を果たさずに逃げてしまう人がたくさん登場します。子どもはそういう大人をみてどう思うでしょうか?おそらく「なんだかんだいったところで、長い物には巻かれたほうが得」ということを確信するようになるのではないでしょうか?
半沢直樹を裏切った同僚は、自分の行為に対して「恥ずかしい」という感情をもっています。しかし半沢直樹を裏切った同僚が「恥ずかしい」という感情をもつことができるのは、同僚に煉獄杏寿郎的な価値観をもつ同僚(≒半沢直樹)という存在がいるからです。
しかしわたしたちが生きている現実社会を見わたしてみても、残念ながら・・・・・・久利生公平(演:木村拓哉)・ドクターXの大門未知子(演:米倉涼子)・相棒の杉下右京(演:水谷豊)・半沢直樹(演:堺雅人)のような存在は見つからないのです。
ドラマや映画の世界から一歩外にでたところでわたしたちが目撃するのは、私利私欲を満たすために他人から搾取していると思えないような人間たちです。そういう人に限って裏でコソコソと暗躍していて、しかもそのことを追求されると説明責任を果たさずに逃げてしまうのです。まるで夜にしか活動できない「鬼」そのものではないでしょうか?
しかし本当におそろしいのは現代社会にまるで鬼のような価値観をもった人間がいること自体にあるのはありません。本当におそろしいのは『子どもへの悪影響』です。
かろうじて「半沢直樹みたいな空気の読めないやついたよなぁ~」と思いだすことのできる昭和の人間は「恥ずかしい」という感情を完全に忘れているわけではありません。「ダメなものはダメ」、「人の道を踏み外すな(鬼になるな)」と教育されてきたからです。しかし現代の子どもたちはどうでしょうか?
現代の子どもは、大人世代のふるまいをじっくりと観察して「恥ずかしい」という感情すらもてずに大人になるのではないでしょうか。そう。鬼(大人)が小鬼(子ども)を大量生産する時代がもうすでにやってきている・・・・・・というのが吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)の危機感であり(あくまで想像ですが)、だからこそ「少年ジャンプ」に鬼滅の刃という作品が登場したことにわたしは価値があると考えているのです。
さてここからが今回、本当に伝えたかったことです↓↓↓
あなたも「鬼」かも?
猗窩座(あかざ)の価値観とはいわば「損得勘定をベースにした交換の価値観」であることはすでに説明しましたが、冷静になって考えてみれば「損得勘定をベースにした交換の価値観」は現代では否定されるどころかほぼ100%肯定されています。
ここであなたが「鬼」の価値観をもっていないかチェックしてみることにしましょう。「損得勘定をベースにした交換の価値観」の持ち主の口癖は「それって(挑戦する)意味あるんですか?」です。
例えば何かを挑戦する前に必ず「それって意味あるんですか?」という質問をして、その質問に対する答えが納得できるものだった場合は「挑戦する」一方で、答えが納得できない場合は「挑戦しない」というような考え方を「合理的」と評するのが現代社会です。
例えば「いい大学」に入るのは「いい会社」に入るためであり、「いい会社」に入るのは「いい待遇」が期待できるからであり、「いい待遇」を望むのは「いい人生」が手に入ると期待するからです。
だから仮に勉強して「いい大学」に入れなかったり、「いい会社」に入れなかったり、「いい待遇」を手に入れられなかった場合には、なにかに裏切られたような気持ちになるわけです。
なぜ裏切られたような気持ちになってしまうかというと、何かに挑戦する「前」の段階で、その人の頭の中ではすでに「交換」は終わっているからです。(例:『勉強』するという労力に対する『志望校合格』という対価、『婚活』するという労力に対する『素晴らしい家庭生活』という対価 etc)
ひらたくいうと、猗窩座(あかざ)の価値観で生きている人の頭のなかはいつだって『自動販売機』なのです。お金を入れたら(労力)、飲み物が手に入る(対価)というわかりやすい関係が成り立っているのが当然であると疑いもしないので、労力に対して何が得られるかわからないものはいつだって「意味がない」ものとして切り捨ててしまうのです。
思い出してほしいのは、そのような『自動販売機』的な発想を全否定しているのが、煉獄杏寿郎であり竈門炭治郎であり鬼殺隊だということです。
死ぬほどキツイ修行(労力)をしたところで、鬼に勝てる(対価)という保証はありません。だけど「それがどうした!!」というのが煉獄杏寿郎であり竈門炭治郎であり鬼殺隊の価値観であり、むしろ実現できるかわからないからこそ必死に修行するのです。
そして鬼滅の刃の最終話を観れば明らかなように(ネタバレになるのでここで詳しく説明することはしませんが)そのような態度を貫いた先にのみ、子々孫々の繁栄と平和が約束される・・・・というのが吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)のメッセージなのではないでしょうか?
鬼に染まらないために
現代人の心の中には「鬼」がひそんでいることを、『鬼殺の刃』という作品をとおして説明したわけですが、そのような目線で作品を見返せば、現代人のかかえる漠然とした不安の正体が「鬼の価値観に囚われていること」にあることに気づくのではないでしょうか?
鬼滅の刃に登場する鬼たちはボスである鬼舞辻無惨に認められるために、必死になって活動するのですが不安から逃れることができません。なぜならば「いつ切り捨てられるかわからない」からです。
自分が幸せになるために鬼になることを選んだはずなのに、鬼舞辻無惨に心も体も支配されるがゆえに漠然とした不安は解消されず、不安が解消されないがゆえに結果として奴隷のように鬼舞辻無惨のために身も心も奉仕し続けるという「負のスパイラル」から抜け出せなくなってしまうのです。
そして一旦負のスパイラルにはまってしまうと、「しょうがない」という無気力な言葉が口癖になり、自分の頭で何が正しいことか考えるよりも「ボスの顔色をうかがう」ことを最優先するようになるのです。(まさに忖度の精神!!)
子どもだけでなく大人までもが鬼滅の刃という作品に心を奪われてしまうのは、まさにそのような(クソみたいな)現実に臨場感(リアリティー)をからではないでしょうか。
鬼滅の刃には、自分の中の「鬼」に打ち勝つためのヒントがたくさんちりばめられていると思いますので、今回説明したような視点で作品を見返してみると、あなたが鬼滅の刃のために費やした時間や労力が『娯楽』以上のものになると思います。
魂を燃やせ!!
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のなかで煉獄杏寿郎は「魂を燃やせ!!」という名セリフを残しました。あなたは魂を燃やしているでしょうか?
「魂を燃やす」ような生き方は、同じく煉獄杏寿郎の言葉で表現すると「責務を果たす」生き方のことです。「魂を燃やす」とか「責務を果たす」という言い回しがわかりづらいのであれば、「あなたは誰のために何をするのか?」という質問に対するあなたなりの答えを考えてみるとよいでしょう。
「自分のためなら手段を択ばず、他人を蹴落としてまでも私利私欲を満たす」のが鬼の生き方です。一方で「魂を燃やす」≒「責務を果たす」≒「わたしは●●のために▲▲をする」という生き方が、人間らしい生き方であるとわたしは考えています。
あなたは人間らしい生活を送っているでしょうか?魂を燃やしているでしょうか?ボスに忖度することが習性になっていないでしょうか?自分が得をすることばかり考えていないでしょうか?長いものに巻かれることに疲れていないでしょうか?無気力になっていないでしょうか?
もしあなたが人間らしい生き方をするのであれば、子どもはあなたの背中をみて、理屈を抜きにして「わたしも立派な人間になりたい」と願うでしょう。
そう。子どもにとって鬼滅の刃という作品が「娯楽」以上のものになるかどうかは、大人であるあなたが煉獄杏寿郎の価値観を実践できるかどうかにかかっているのです。